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失われたモノを求めて
待ち人は消せず驟雨の伝言板

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 藤田湘子の主宰誌『鷹』に初めて掲載された俳句。
 ひと昔前はどこの駅にもあった伝言板も、最近はさっぱり見かけなくなってしまった。携帯電話の普及で利用者が少なくなったためだろうが、ちょっぴり淋しい気がする。
 前回の俳句のレコードもそうだが、ここ20年足らずの間に生活の場面から消え去った「モノ」は意外に多い。それだけ時代の流れが早くなっているということなのだろう。
 俳句は「寄物陳思(物に託して思いを語る)」文学だといわれる。その肝心かなめの「モノ」が暮らしの中から消えやすくなっているということは、それだけ俳句の語る言葉の寿命も短くなっているということになるのだろうか。いつまでも消えないものを詠むとしたら、自然の中に題材を求めるしかないが、その頼りにする自然の風物詩ですら、どんどん失われているのだ。
 わずか17音の俳句の言葉は、ますます語りにくく、伝わりにくいものになるのだろう。しかし、そう悲観することもない。
 レコードや伝言板というモノそのものは、暮らしの場に実在しなくなっても、そのモノを使った生活の記憶は、いつまでも頭の隅に残っている。そして、その記憶を、その当時の心情とともに瞬時に甦らせることができるのも、俳句の大きな魅力のひとつなのである。
 同じことは、季語にもいえる。夏の季語の「蚊帳」など、いまでは実物を見ることはなくなったが、それを使った生活の記憶はしつかり残っており、蚊帳を詠んだ俳句もちゃんと理解できる。
 蚊帳を全然知らない若い世代でも、説明すれば分かるだろう。どんな言葉でもいずれは古びるのだから、それはそれでいいと思う。
 小説が、「失われた時を求めて」書く文学だとしたなら、俳句は、「失われたモノを求めて」その記憶を止めるために詠むものだ、と最近では思っている。







未分類 | 19:14:40| Trackback(0)| Comments(0)